夏野清太郎の記録

いっしょにこの時代をなんとか生き延びよう。だいたい仕事の話をします。

新卒ブラック企業勤務から18年、僕の年収が「転職」でどう変化したか

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こんにちは夏野清太郎です。

「仕事」というワンテーマに絞って発信し始めて1週間くらいたちました。僕は「人生再設計第一世代=就職氷河期世代」の後半に当てはまりますが、その寒さのなか、なんとか現在まで無事に生き延びてこれたほうだと思っています。

今の私の年収が大体850万くらいで、住宅手当などを入れると950万くらいです。新卒時300万で始まった年収がどういう推移で今の水準に至ったのか振り返ってみることで、何か皆さんの年収アップのヒントになればいいのかなと思います。

僕の職務遍歴はたぶん特殊なので、もっと正攻法なやり方であげてきた人もいると思うので、そういう人には、ぜひシェアしてほしいと思います。しりたい。

ブラック期(22歳~24歳)

僕は偏差値70くらいの私大文系の大学生でした。三菱電機ダイエーソニーミュージックなど「名前を知っている」というだけで何も考えずエントリーシートを送っていた僕は、見事に就職活動に失敗し、内定がひとつも無いまま大学4年生を迎えていました。就職戦線が厳しいという話はさすがに耳に入っていたので、このタイミングでようやく危機感を覚えるようになり、自分の今後についていよいよ考えた結果「手に職つける」方法でサバイブしていくほか無いだろうという結論になりました。

もともと大学時代に初めて購入したSOTECの10万円パソコンで、趣味でサイトを作っていたので、そこから1ヶ月ほどで企業用のWebサイトをいくつか作って、Web制作専門誌の最後のほうに載ってるWeb制作会社のリストで、いい感じ実績のところから順に作品を送りつけていきました。

僕はその中の1社に採用が決まり、働き始めました。恵比寿の50人くらいの制作会社で当日としては割りといいクライアントを持っている会社でした。社長はアメリカ人で給料はそこそこちゃんと出ていたと思いますが、泊まりこみの作業は当たり前、残業代全部コミコミの金額だったので、時給換算するとコンビニバイトより安いくらいだったんじゃないかと思います。「進捗どう?」という上司の問いかけに、「あの案件とあの案件がこれくらいで・・・」と説明しながら、何か心の線が切れて号泣してしまうという精神状態で、こりゃだめだなと思ってフリーになることを決意しました。あと残業代よこさないくせに、遅刻するたび給料から1万円天引きされてました。

この会社での最後のタイミングで給料は330万くらいでした。送迎会で送り出されてタクシーで家に帰るとき、あーこれで自由なんだな。でもこれ生きていけるのかなー、とか思いながら、車窓から月を見てました。でもまあ、フリーこけてもどっか転職できるだろくらいに思ってました。手に職があったので。

フリーランス期(25歳~27歳)

三年のうちにそこそこできるデザイナーになっていた僕は、会社を辞めてフリーになったあとも継続的にその会社のディレクターから外注仕事をもらうようになりました。

デザインは表現の世界なので、いくら引き継いでも目の肥えたクライアントは「前回と同じ人がいい」と指名してくれることもあり、月給20万円でやってたデザイン仕事が1デザイン20万円に変わり、経済状況は一気に好転しました。

社員時代、常時5案件くらい抱えていたデザイン仕事を、つきに1本やれば同じ収入がある状況になり(実際は年金とか保険とかの金額が上がってるんだけど)案件にも恵まれて、年収600万こえるくらいになりました。でも昼夜逆転生活に入ってて社会とのつながりも仕事以外なくなった僕は、パニック障害になっちゃいまして、心療内科通ってました。そういう意味ではつらかったです。会社作ったら直ったけど。発作はもうここ10年位無いけど、今でも僕のポケットにはソラナックスが入ってます。

というわけで、会社経営期に入ります。

会社経営期(28歳~35歳)

ベンチャー!ではなくフリーランスの集合体のような会社でした。僕と同じように企業から独立したフリーランスが、大学時代の友人に多く居たので、それらでシェアオフィスする間にもうこれ会社にしちゃったほうがよくない?という話になり起業しました。

「生きる」がテーマの会社だったので、銀行からの借り入れは行わず自己資金だけでスタートしました(これが会社の成長スピード遅らせたんで、まあこの判断は失敗だったと思う)。少しずつ社員を雇っていき、7年で20人くらいの会社になったんですが、何しろ自己資金なもんで会社の転居や、売り上げ不振のタイミングでは、キャッシュフローがカツカツになり、役員の給料減らしてでもキャッシュフローを維持するということを繰り返した結果、収入の水準は550~700万のあたりをうろうろしてました。「フリーのほうが簡単だったし、儲かったよなー」とも思いましたが、結果この時期に僕のスキルセットは、デザインからデジタルマーケティングSNS活用に広がり、会社の顔として原稿書いたり本出したり、取材されたりすることも増えていきました。メインで取り組んでいた領域が、ちょっと新しい分野だったので、テレビとか新聞とかも来たよ。テレビの取材は総じて自分勝手でひどかったですが、日経の人は丁寧でありがたかったです。

7年続けた会社でしたが、僕は役員との経営方針の違いで、その会社を離れるようになりました。終盤はほとんど会社に行かない時期も増えてきて最悪(な経営者)の状況でした。

外資IT期(36歳~37歳)

そんなこんなで、これは一旦会社はなれるのがみんなのためにも良いな。と考えるようになり、その会社の株などを清算し、転職活動をして外資ITに入りました。転職活動で役立ったのは、経営時代のメディア露出でした。まだまだ転職ではこういったメディア露出の錯覚資産が有効なようで、意外とすんなり決まりました。

広告商品の企画だったので、広告を売る営業部隊の中に入ったわけですが、超体育会系の会社のノリについていけず、入社半年で次の転職先を探しながらの勤務となりました。年収は取締役時代の700万くらいをキープできていたので、ここはラッキーでした。取締役時代はほとんど無かった福利厚生を同じ年収キープした上で享受できたので、体感的にはすごく安定した気持ちになりました。仕事はきつかったけど。

外資メーカー期(38歳~40歳)

いまは、外資グローバル企業のB2Cマーケ系部署に勤めています。この転職でも会社経営経験や、メディア露出経歴などがうまく働き、何とかスペシャリストとして入社できました。僕の仕事のひとつSNS活用の領域は、デジタルメディアの変化の結果、最近になって「企業にとって必要になった仕事」なので、そもそも実務経験がある人が極端に少ない職種です。なので、僕のスキルは競争が置きにくい領域にありました。英語も弱い僕が外資で働けているのはそういう背景もあります。(ただし、勉強しないと出世できない)

ITのころはついていなかった残業代が、ここではフルでつくようになり、家賃補助などもついてさらに年収は上がりました。平社員ですが年収850万+家賃補助年間約100万。これが現時点です。でも横を眺めてみると同年代で課長や部長になっている方(推定年収1200万くらい)も居るので、この人たちはプロパーで実績を積み上げてきた人たちなんだなーと思うと、自分はずいぶん遠回りをしたな。という感覚にもなります。みんなすごいよね。僕はもう疲れたよ。

まとめ

こう振り返ってみると、僕の年収アップのきっかけになっていたのは「自分のスキルを高く買ってくれる場所への移動させること」だったと思います。

正社員からフリーへ移動することで、同じデザイン仕事で年収は倍に。経営者時代のスキルを、給与レベルの高い外資メーカーに持ち込むことで、さらに年収の上積みができました。いわれてみれば「同じ仕事を、高く売れる場所で売る」のは商売の基本なのかなと思います。

もうひとつは、自分のコアスキルを時代に合わせていくことでしょうか。スキルを高めること以上に、そのスキルが時代に必要にされているか(将来必要とされるか)ということのほうがより重要だと思います。いまだと何でしょうね。AI活用とかRPAとかでしょうか。開発者になる必要ないですよ。使えりゃいいんです。

僕はキャリアの途中で「デザイン」を捨てて、「デジマ・ソーシャル」に軸足を移したので、それがうまくいったのだと思います。

 

以上長々失礼しました。なにかあなたの生き残りのヒントになればうれしいです。

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