夏野清太郎の記録

いっしょにこの時代をなんとか生き延びよう。だいたい仕事の話をします。

ハーフの子を産みたい女と、#ハーフベビー をみてもらたい母親たち

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こんにちは夏野清太郎です。

着物の「いせよし」が広告の中で、着物を着ると「ハーフの子を産める(外国人と結婚ししてこどもが生める)」といった趣旨のコピーを採用して炎上しています。

通常コピーライターは広告主とのコミュニケーションの中でコピーを生んでいく(たくさん出した案の中から、選別されていったり、ニュアンスを加えていく作業が入る)ので、広告主の欲望を内面化した、この最終的に採用されたコピーをみて、コピーを書いた人間が強く責められるのも、なかなかしんどいなという気がします。個人的にはどっちかというと広告主側の問題だと思います。

一方、賞あげたのは広告業界の落ち度です。賞選ぶ際に「良くぞここまで踏み込んだコピーを成立させた」ねって言う意味合いがあるのか、そもそも広告主側への「賞のプレゼント」な可能性もあるからなんともいえないですが。広告業界ってこの辺の機微わかってるからこそ広告代理店なわけで、博報堂はかっこ悪いことしたなと思います。

ともかくこのコピーは、いろんな問題を含んでいるので、みんなどのあたりに怒っているのか意外と分かれるんじゃないかなとも思ってます。

「着物を着てれば外国人が寄ってくる」っていう発想は外国人を馬鹿にしている気がするし、打算的に着物を使って「夫となる人間を釣るような恋愛観」がそもそも下品だ。と怒っている人もいる気がするし「ハーフの子供」という発想の中に、自分の子供にルッキズムを求める母親の倫理観を問うような人もいる気がするし、そもそもそういったもやもやを「日本の伝統文化の着物」につなぐんじゃねえよ。と怒っている人もいる気がします。あと「母親を喜ばせるために、私はハーフとして生まれたわけ?」と怒るハーフ当事者の方もいるでしょう。それ以前に「ハーフって呼ぶな」という人や、女性は「産む機械」じゃないの人もいるか。良く通ったなこれ。

ただ、このコピーは3年前のものだそうですが、実際にはこの広告を目にして響いて店頭に来た消費者もいるんだろうなーと思います。一定数こういった考えの人間っていますよね。というか、皆さんの周りにも結構いませんか?白人のパートナーに憧れを持つ日本人。いますよね?僕の周りだと高校生のころの女友達にもいたし、男友達にも白人女性への偏執的なあこがれを強く持つ人がいました。結構ありふれた欲望なのかもしれない。白人コンプともいえる。

あれ?最初はハーフの話だったのに、急に白人ハーフに限定された?と気づいたあなた。するどい。そう思ったのには理由がありまして。

#ハーフベビー というInstagramハッシュタグ

仕事上Instagramデータを集計してよく見るんですが、子育て系のハッシュタグのなかで見つけた「#ハーフベビー」というハッシュタグの存在に愕然としました。

Instagram:#ハーフベビー 検索
 https://www.instagram.com/explore/tags/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%99%E3%83%93%E3%83%BC/

赤ちゃんの写真をInstagram上に上げる母親は数多くいますが、自分の子供を「ハーフ」だとして広めたい母親が上げた写真が、少なくともこのハッシュタグ上に8万件以上あって、そのほとんどが白人とのハーフなんですよね。日本人っぽい顔になった赤ちゃんにはわざわざ「#和顔ハーフ」といったワードでエクスキューズする母親すらいるようです。これみてると、ハーフの子供ほしい母親って、パッチリ二重のかわいい赤ちゃんがほしい母親である可能性は結構高いんじゃないかと思ってしまいます。

コメント欄では、まさに、そのかわいい赤ちゃんの「見た目」に賞賛を送る声も多くて、なんかこれみてると、「ハーフの子を産みたい方に。」のコピーもそういった層には刺さってたんだろうな。という気持ちになります。ハーフの子供を産みたい母親も、そのハーフの子供を「愛でて」楽しむタイプの人間も世の中にはまだいっぱいいるんだなと。

個人的には、美しい外見は「目に見える才能」のようなものだし、それによる差別も現に存在すると思うけど(僕だって美しいものは好きです)、だからといって母親の考える「望ましい外見」であることを過度に子供に期待する価値観は、受け入れられないと考えています。

「ハーフの子供を産みたい」母親が、子供がハーフであることに日本人にはない美しさを求めているとしたら、自分が期待したほどかわいくない子供が生まれてきたとき、#ハーフベビー の母親ってどうするんでしょうね?

新卒ブラック企業勤務から18年、僕の年収が「転職」でどう変化したか

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こんにちは夏野清太郎です。

「仕事」というワンテーマに絞って発信し始めて1週間くらいたちました。僕は「人生再設計第一世代=就職氷河期世代」の後半に当てはまりますが、その寒さのなか、なんとか現在まで無事に生き延びてこれたほうだと思っています。

今の私の年収が大体850万くらいで、住宅手当などを入れると950万くらいです。新卒時300万で始まった年収がどういう推移で今の水準に至ったのか振り返ってみることで、何か皆さんの年収アップのヒントになればいいのかなと思います。

僕の職務遍歴はたぶん特殊なので、もっと正攻法なやり方であげてきた人もいると思うので、そういう人には、ぜひシェアしてほしいと思います。しりたい。

ブラック期(22歳~24歳)

僕は偏差値70くらいの私大文系の大学生でした。三菱電機ダイエーソニーミュージックなど「名前を知っている」というだけで何も考えずエントリーシートを送っていた僕は、見事に就職活動に失敗し、内定がひとつも無いまま大学4年生を迎えていました。就職戦線が厳しいという話はさすがに耳に入っていたので、このタイミングでようやく危機感を覚えるようになり、自分の今後についていよいよ考えた結果「手に職つける」方法でサバイブしていくほか無いだろうという結論になりました。

もともと大学時代に初めて購入したSOTECの10万円パソコンで、趣味でサイトを作っていたので、そこから1ヶ月ほどで企業用のWebサイトをいくつか作って、Web制作専門誌の最後のほうに載ってるWeb制作会社のリストで、いい感じ実績のところから順に作品を送りつけていきました。

僕はその中の1社に採用が決まり、働き始めました。恵比寿の50人くらいの制作会社で当日としては割りといいクライアントを持っている会社でした。社長はアメリカ人で給料はそこそこちゃんと出ていたと思いますが、泊まりこみの作業は当たり前、残業代全部コミコミの金額だったので、時給換算するとコンビニバイトより安いくらいだったんじゃないかと思います。「進捗どう?」という上司の問いかけに、「あの案件とあの案件がこれくらいで・・・」と説明しながら、何か心の線が切れて号泣してしまうという精神状態で、こりゃだめだなと思ってフリーになることを決意しました。あと残業代よこさないくせに、遅刻するたび給料から1万円天引きされてました。

この会社での最後のタイミングで給料は330万くらいでした。送迎会で送り出されてタクシーで家に帰るとき、あーこれで自由なんだな。でもこれ生きていけるのかなー、とか思いながら、車窓から月を見てました。でもまあ、フリーこけてもどっか転職できるだろくらいに思ってました。手に職があったので。

フリーランス期(25歳~27歳)

三年のうちにそこそこできるデザイナーになっていた僕は、会社を辞めてフリーになったあとも継続的にその会社のディレクターから外注仕事をもらうようになりました。

デザインは表現の世界なので、いくら引き継いでも目の肥えたクライアントは「前回と同じ人がいい」と指名してくれることもあり、月給20万円でやってたデザイン仕事が1デザイン20万円に変わり、経済状況は一気に好転しました。

社員時代、常時5案件くらい抱えていたデザイン仕事を、つきに1本やれば同じ収入がある状況になり(実際は年金とか保険とかの金額が上がってるんだけど)案件にも恵まれて、年収600万こえるくらいになりました。でも昼夜逆転生活に入ってて社会とのつながりも仕事以外なくなった僕は、パニック障害になっちゃいまして、心療内科通ってました。そういう意味ではつらかったです。会社作ったら直ったけど。発作はもうここ10年位無いけど、今でも僕のポケットにはソラナックスが入ってます。

というわけで、会社経営期に入ります。

会社経営期(28歳~35歳)

ベンチャー!ではなくフリーランスの集合体のような会社でした。僕と同じように企業から独立したフリーランスが、大学時代の友人に多く居たので、それらでシェアオフィスする間にもうこれ会社にしちゃったほうがよくない?という話になり起業しました。

「生きる」がテーマの会社だったので、銀行からの借り入れは行わず自己資金だけでスタートしました(これが会社の成長スピード遅らせたんで、まあこの判断は失敗だったと思う)。少しずつ社員を雇っていき、7年で20人くらいの会社になったんですが、何しろ自己資金なもんで会社の転居や、売り上げ不振のタイミングでは、キャッシュフローがカツカツになり、役員の給料減らしてでもキャッシュフローを維持するということを繰り返した結果、収入の水準は550~700万のあたりをうろうろしてました。「フリーのほうが簡単だったし、儲かったよなー」とも思いましたが、結果この時期に僕のスキルセットは、デザインからデジタルマーケティングSNS活用に広がり、会社の顔として原稿書いたり本出したり、取材されたりすることも増えていきました。メインで取り組んでいた領域が、ちょっと新しい分野だったので、テレビとか新聞とかも来たよ。テレビの取材は総じて自分勝手でひどかったですが、日経の人は丁寧でありがたかったです。

7年続けた会社でしたが、僕は役員との経営方針の違いで、その会社を離れるようになりました。終盤はほとんど会社に行かない時期も増えてきて最悪(な経営者)の状況でした。

外資IT期(36歳~37歳)

そんなこんなで、これは一旦会社はなれるのがみんなのためにも良いな。と考えるようになり、その会社の株などを清算し、転職活動をして外資ITに入りました。転職活動で役立ったのは、経営時代のメディア露出でした。まだまだ転職ではこういったメディア露出の錯覚資産が有効なようで、意外とすんなり決まりました。

広告商品の企画だったので、広告を売る営業部隊の中に入ったわけですが、超体育会系の会社のノリについていけず、入社半年で次の転職先を探しながらの勤務となりました。年収は取締役時代の700万くらいをキープできていたので、ここはラッキーでした。取締役時代はほとんど無かった福利厚生を同じ年収キープした上で享受できたので、体感的にはすごく安定した気持ちになりました。仕事はきつかったけど。

外資メーカー期(38歳~40歳)

いまは、外資グローバル企業のB2Cマーケ系部署に勤めています。この転職でも会社経営経験や、メディア露出経歴などがうまく働き、何とかスペシャリストとして入社できました。僕の仕事のひとつSNS活用の領域は、デジタルメディアの変化の結果、最近になって「企業にとって必要になった仕事」なので、そもそも実務経験がある人が極端に少ない職種です。なので、僕のスキルは競争が置きにくい領域にありました。英語も弱い僕が外資で働けているのはそういう背景もあります。(ただし、勉強しないと出世できない)

ITのころはついていなかった残業代が、ここではフルでつくようになり、家賃補助などもついてさらに年収は上がりました。平社員ですが年収850万+家賃補助年間約100万。これが現時点です。でも横を眺めてみると同年代で課長や部長になっている方(推定年収1200万くらい)も居るので、この人たちはプロパーで実績を積み上げてきた人たちなんだなーと思うと、自分はずいぶん遠回りをしたな。という感覚にもなります。みんなすごいよね。僕はもう疲れたよ。

まとめ

こう振り返ってみると、僕の年収アップのきっかけになっていたのは「自分のスキルを高く買ってくれる場所への移動させること」だったと思います。

正社員からフリーへ移動することで、同じデザイン仕事で年収は倍に。経営者時代のスキルを、給与レベルの高い外資メーカーに持ち込むことで、さらに年収の上積みができました。いわれてみれば「同じ仕事を、高く売れる場所で売る」のは商売の基本なのかなと思います。

もうひとつは、自分のコアスキルを時代に合わせていくことでしょうか。スキルを高めること以上に、そのスキルが時代に必要にされているか(将来必要とされるか)ということのほうがより重要だと思います。いまだと何でしょうね。AI活用とかRPAとかでしょうか。開発者になる必要ないですよ。使えりゃいいんです。

僕はキャリアの途中で「デザイン」を捨てて、「デジマ・ソーシャル」に軸足を移したので、それがうまくいったのだと思います。

 

以上長々失礼しました。なにかあなたの生き残りのヒントになればうれしいです。

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同化か多様性か、あなたにとっての理想の職場ってどんな環境ですか?

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こんにちは夏野清太郎です。

僕は小学校の頃から転校が多かったのですが、友達をつくるのはわりと得意だったので、転校する先々で友だちグループができていました。でも仲良くなったみんなとも2年ほどでバラバラ。という感じを繰り返すうちに、あまり友達は必要ないんじゃないかと思うようになりました。

その場にいる気の合う人間とその場で仲良くできれば、それでいいのではないかと。僕は個人主義なのだと思います。

大学時代の友人は僕を「そういうやつ」として扱ってくれましたので、後に一緒に会社をやれるくらいの関係性が維持できていました。(それを僕はダメにしてしまうのですが、またそれは別の話)

そんな人間が会社を作って10名ほどの部下を抱えるようになったとき(例のセクハラ事件の後です)とった組織の運営方針はこうでした。

多様性と自由

飲み会はできるだけやらない。プライベートには口出ししない。有給取得理由なんか興味ないし、必要な仕事をしてくれればバッチリ給料を払うこと。(僕の最初の職場がブラックだったので、当時の社員には業界平均以上の給料をちゃんと払ってました)

傭兵集団のような多民族国家のような組織でした。仕事のために集まって、仕事が終わったら解散。いろんな考えのものがいて当然で、会社の方向性みたいなことを教育もしない。仕事以上の余計な愛社精神を社員に求めない職場だったのです。

ブラック社員時代「社員も経営者マインドを」という経営者のことが、僕は嫌いでした。

「それはお前たち経営者の仕事だろう?」と、いつも思っていました。だから僕の会社はこういう形になったのです。

どうですか?

みんなこういう職場すきですか?プライベートはプライベートで分けたい人にとっては、結構理想郷のような会社だったんじゃないかなと思うのですが、結論から言うと、経営する側としては正直失敗だったんじゃないかと思います。

どこが問題だったか。

この体制であれば、毎年決まった額の給料を払いつづける事はできる。決まった仕事をし、もらえる分をもらう。現に皆それを仕事と認識してます。でも何年も同じ給料じゃ嫌ですよね?社員は皆さん同様、毎年給料増えていくのが当たり前だと思ってます。

しかし、会社の利益のうち諸経費を引いた分が給料の原資になります。売上や利益が増えないと給料は上げられない。給料を上げるには会社を大きくしなきゃいけない。新しいプロジェクトを始めて、より利益の上がる新しい方向性でビジネスを成長させていくとき、この体制だとハンドリングが全然きかないのです。

社員20名の会社ですが、ちいさな会社はボートのようなものです。経営陣だけが同じ方向を向いて漕いでいてもたった数人では前に進めません。乗ってる20人で同じ向きに漕げれば、どんどん進みます。それが強い会社です。組織で利益を上げる以上、漕ぐベクトルは絶対そろっていないといけません。

誰かが前に漕ぎ、誰かが後ろに漕いでいては、その場で回り続けるボートなのです。

同化と空気の支配

少し経って、僕は自分の会社を離れ、外資系ITで広告商品の企画の仕事をしました。そこで感じたのは強い同質性でした。もともと広告営業の世界は、売ってなんぼの実力勝負の世界でした。数字で管理され、未達を指摘され、達成者は称賛される世界です。彼らの価値観は数字でした。

電通とも仕事をする機会が多かったので、仕事上彼らの無茶に付き合わざるを得ない場面も多く、彼らの仁義に合わせた仕事の仕方が求められました。広告の世界で偉いのは、クライアント>代理店>メディアなのです。

職場の役員主催のパーティで、タワマンの最上階のイベントスペースで、役員や営業マネージャーの号令とともに、新人が一発芸を次々求められ、芸のないものはイッキをしてその場をやり過ごすような職場で、僕はとても働けないと感じました。

同質性のうらには、強要が生まれるのです。当時はまだ高橋まつりさんの事件の前でしたが、「同化」は「空気の支配」とたいていセットで行われます。空気を読めないものは一員と認められないのです。

僕は2年弱でその会社を転職しました。

同化か多様性か。あるいは。

大体の会社は、こういった価値観の間に広がるグラデーションの何処かに位置しているのだと思いますが、どのへんの温度感が適切だとおもいますか?

僕は専門家ではないけど、欧州における移民問題では、移民の文化的背景をそのまま維持する「多文化主義」か、移民を受け入れ側の文化に吸収し、邦人に変える「同化主義」か、で揺れているそうです。30年前ならリベラルな人はみんな多文化主義を選んだでしょう。でも今はそうじゃないらしい。

多文化主義は永遠に邦人と移民を隔てる壁になり、真に受け入れる気なのであれば、同化主義を取るべき。という論調が強くなっているとのこと。

企業の話に戻ると、ブラック企業って極度の「同化」企業だけど、ベンチャーもほとんど「同化」型企業でしょ?同化企業は会社にコミットして結果を出せば出世できる企業が多いわけです。

逆に大企業でまだ残ってる、歳取ればとりあえず年収上がって出世できる年功序列って「多文化主義」てきなゆとりがあるんですよね。多少会社の考えから外れてても出世できるわけで。大企業の資本力があって成り立つわけですが。

長くなってしまいましたが、皆さんどういう職場が理想ですか?

僕は高待遇で多様性が維持されているらしい、Googleで働きたいです。

あなたが面接に落ちたのは、あなたの能力が低いせいじゃないよ。#転職

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こんにちは夏野清太郎 https://twitter.com/NatsunoSeitaro です。

転職活動で面接に落ちるの、誰でもへこみますよね?
特に若い人ほど、採用する側の心理がわからないので、余計落ち込みやすいのかなと思ってこの記事書いてます。僕はいい年のおっさんなので、自分で会社を経営していた時代や、そのあとサラリーマンにもどってからも、もう10年くらい面接官をやってます。

面接する側になってみると「スキルは十分だし、この人と本当はいっしょに働きたいんだけど、落とさざるを得ないよなー」ということが結構あるので、今日はどう言ったケースがあるか書いてみたいと思います。面接官のスタンスはもちろん個人の考え方や、部署や会社によってまちまちなんですが、僕と同じように考えるひとも結構いると思うので、参考にしてもらえたらうれしいです。

1.年収下げて応募してくる人

自分の現職の年収から100万円とか200万円とか下げて応募してくる優秀な人は、逆にとりづらいです。

年収下げた分「仕事が面白そう」とか「どうしてもこれがやりたい」とか「会社のビジョンに共感して」とか、その他の期待値のハードルが「激上がり」状態で応募されると、働き始めても意外と長く続かないことが多いので、採用は慎重になってしまいます。そういうキラキラって3日で慣れるもんね。年収は生活レベルを大きく変えるのに。

うちの会社ってそのハードルを越える「仕事の喜び」を提供できる職場だっけ?結構みんな転職していくよ?今の時代、いちど年収下がったら上げるの大変だし、採用しないほうがこの人のためなんじゃ?って気にすらなります。

特に異業種からのチャレンジ転職の場合だと、よりそう考えてしまいます。

2.スキルが高すぎる人

当たり前ですが会社組織はチーム戦なので、ベンチャーとかじゃない大企業になるほど、スタッフレベルの採用に超優秀な人が来ても、採用しにくいです。

ピーキーなスキルを持った超優秀な人間の上が、凡庸なマネージャーとかだったりすると、いやこの人あの上司には扱えないだろう・・・。という判断をすることもあります。ぜんぜんあります。

社員が超優秀だから、マネージャーとスタッフを入れ替える、という変化を取れることは非常にまれで、基本スタッフレベルの採用とマネージャーレベル採用は別個のものとして行われる会社が多いので、自分の身の丈にあった職種・ランクの応募か考えましょう。(ベンチャーはそもそもフラットだとあるかもね)

3.社風にあってない人

これ。スキルや年収がマッチしてても、社風大事にしてる採用って、ベンチャーでも中小でも大企業でもいっぱいあって、人間的に好き・嫌いじゃなくてこの人「うちの会社っぽい」かどうかっていまだに重要視されてる。

営業が強い会社は体育会系のノリのとこ多いし、オタクっぽい会社なのか、しごと大好き人間の集まった会社なのか、そういう「社風」で採用見送りになるケースも山ほどある。美人しか採用しない会社とか、変人じゃないと採用しない会社とか、らしさっていう部分はまだまだ重要だと思われてる。

この令和の時代だけど、多様性より同質性ってまだまだ大事だと思ってるひと多いとおもう。これ、現実。大企業だと学歴フィルタというか大学差別みたいなのもまだあるよ。個人的にはどうかと思うけど、あるんだからどうしようもないね。

結論:だから、まあ落ちても気にしないで、受かったらいいかなーくらいでがんばりましょう。

僕自身も転職活動繰り返して、いろいろ落ちた上で縁があって今は割と楽しく働けているので、気になる応募があったらちょこちょこ応募しておく、くらいの気持ちで自分のキャリア定期的に見直しておくのが良いかなと思います。で、落ちたとしてもタイミング悪かったかなとか、俺じゃ収まりきれないポストだったのかなとかんがえましょう。

なんで基本転職活動するなら必ず在職中にやるのがおすすめです。退職してから転職活動すると、貯金切り崩しながら活動することになるんで、どうしても妥協してしまいそうになります。(でも、転職活動時間取れないほどブラックならまず辞めるしかないんですよね・・・つらい)

僕はセクハラ上司だった。

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社会人一年生の皆さんこんにちは。夏野清太郎です。

「#社会人1年目の私へ」という企画がやっているので、当時の社会人一年生だった私や、今社会人一年生のみなさんに向けて書きたいと思います。

10年前、僕が自分の会社をやっていたころの話です。社会人一年生時代は持っていなかった権力をいつの間にか持っていたことに無自覚だった時期の話です。僕の「失敗」であり、失敗であるがゆえにきっと参考になると思います。

僕はセクハラ上司だった

大学卒業後、3年ほど制作会社(ブラック)でWebデザイナーとして働いたあとフリーランスを経て、僕は大学時代の友人たちとデジタルマーケティング会社を立ち上げました。それはデザインやプログラムを行う制作部門と、そういった制作案件を広告代理店や、事業会社から取ってくる営業部門に分かれていて、僕は制作部を担当する取締役でした。社員は10名ほどで小さな組織だったけど、間違いなく僕はその組織の中で偉い人間でした。

ある年に新卒で営業部に女子社員が入社してきました。九州から上京してきた、少しぼやっとしたはなし方をするかわいい女の子で、僕は彼女に恋をしてしまいました。一瞬で。当時僕は29歳でした。

彼女がとってきた客先に打ち合わせで同行をするあいだ、移動中にいろいろ話すうち、彼女はどうやら大学時代に講師と付き合っていて、その彼氏の東京赴任を追いかけて、東京に来ているらしいと知って、いろいろと合点がいきました。どう考えても彼女は「自分のキャリアをぐいぐい伸ばしていきたいです!」といったタイプではなかったのです。うちの会社は零細企業なので、なぜ入社したんだろうと疑問だったのですが、彼女にとっては東京にいけるということが重要で、会社を選り好みはしていなかったのです。

そんな移動中、映画の話題になったこともあり、僕はだめもとで、休みに二人で映画に誘ってみました。彼氏がいるとかはあまり気にならず、とにかく彼女と少しでも親しくなりたかったのです。

メールで誘ったところ即レスでOKの返事が来て、休日にとしまえんで二人で映画を見ました。邦画のミュージカル作品で変わった映画でした。映画館を出てお茶していたら、彼女が「せっかくのとしまえんなんで遊園地のほう行きませんか?」と誘ってくれました。その日の午後は、遊園地でいろいろ乗り物乗ったりしてあそび、夕方、そのまま解散しました。

そのあとくらいから、仕事中のランチはきまって一緒に行くようになり、3ヶ月くらいたったころ、僕はうやむやな関係をどうにかしたくて彼女に告白しました「つきあわないか」と。

ここまでの話を読んで、すでに「ドン引き」している人と、「あれ?いけんじゃね?」となっているひとに分かれているのではないかと思います。そう願いたい。すくなくとも当時の僕は可能性あるのかなと思っていました。

ちょっと時間をくださいといわれて、数週間後、結論としては「難しい」という返事をもらいました。やはり今の彼のことを大事にしたいと。「二人で出かけたり親しくしたのは私の不注意だった」誤解させたとおもう。すいませんでした、と。

この瞬間、僕は自分がセクハラ当事者であることに、ようやく気づいたのでした。彼女にとって僕は仕事上の上司だから、誘いも断りにくく、親しくしておいたほうが仕事もやりやすいため、ランチをともにしていただけなのです。僕はとんだ勘違い野郎だったのです。

僕は彼女に謝り、その後、仕事上はいつもと変わらない関係にもどりました。僕は二度とプライベートで会わないよう私的な連絡を絶ちました。

しばらくあと、彼女はその彼と結婚することになり、会社をやめていきました。僕はそれから社員との交流を、業務に関するものだけに、意識的に制限していくようになりました。いまでも職場のつながりを濃くすることには慎重になります。異性はもちろん、同姓でも。

セクハラをしないために、セクハラにあわないために。

世のセクハラ記事を見るにつけ、このときの体験がうずいて罪の意識に憂鬱になります。新聞記事で見かけるセクハラ当事者は、どうしようもない人たちですが、僕だって彼らと同じ線路に乗っていたわけで、彼らの少し手前で止まれただけのことなのです。

僕は自分の立場に無自覚だったし、手前で止まれた気になっているだけで、彼女は「いや、私、轢かれましたけど?」と思っているかもしれません。

僕が社会人1年生に伝えたいのは、セクハラをしないように「自分の持つ権力に自覚的でいてほしい」ということと、セクハラ被害にあいそうなときには「相手が自覚無くやっている可能性があり、まずセクハラだと気づかせる必要がある」ということです。こちらは当事者間ではなく第三者をはさめる会社内コンプラ窓口とかに相談するのが良いと思います。

※僕の会社には当時コンプラ窓口はありませんでした。